野田凪展@G8
行ってきました
享年34歳
若すぎる。。
自分と年齢あまり変わらないし。
当時、ニュースで報告を聞いた時は
突然すぎてあまり実感がなかった。
それが2008年
それから3年もたってしまったんだなー
会場は、懐かしい作品ばかり
ロケや撮影の合間に撮った写真や映画のメモなど興味深かった
かなり変わってるというかおもしろい家庭環境だったんだな
たとえば、映画100本見たらお祝いにトロフィーなどw
自分が行った時は6時過ぎだったのだけど、
会場には10人近くの人がいて、そのほとんどが
たぶん20代前後の人だとおもう
彼女が生前残した作品は、今もなにかしらの影響を与えているのだろう
と思うと、そういうのってなんかよいね
2011年10月18日(火)~ 11月18日(金)
11:00a.m.-7:00p.m. 日曜・祝日休館
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アートディレクター、映像ディレクター、アーティストとして、日本の広告・グラフィックデザインにとどまらず、ファッション、アート、そして海外へと活動の場を広げていた野田凪氏。2008年の突然の訃報から早くも3年が経ちました。
かわいらしさと毒を持つ不思議な世界観、作品から伝わる圧倒的なパワー、「見たことのない世界を表現したい」という情熱を持ち、突き進む氏は、常に注目を集める存在でした。そしてその作品は、私たちに鮮烈なインパクトを残し、いまなお生き生きと存在し続けています。
本展では、LAFORET、NIKE、サントリーをはじめとする広告のポスターやCM、YUKI、宇多田ヒカルなどのCDやミュージックビデオ、パッケージ、装丁、プロダクト、ファッション、アートワーク「ハンパンダ」など、氏の手がけた代表的な仕事をまとめてご紹介いたします。
デビューから十数年間という短さを全速力で駆け抜けた野田凪氏。氏のクリエイションの数々をぜひみなさんにご覧いただきたいと思います。
野田 凪だったらどうするだろう
彼女が亡くなったのは、2008年9月7日だった。
その日は日曜だった。日曜と聞いたとき、なぜか
彼女の死をとても孤独に感じ黙ったことを覚えている。
あれからもう3年がたつ。
アーチスト気質の野田 凪が、会社の仕事として
広告をやることになったとき、広告ができるかなあと、
わたしを含め、まわりの人間は疑った。
広告はアートじゃないからさあなどと、したり顔して言った。
ところが凡庸な想像力を笑うように、彼女はできた。
広告がうまかった。アートと広告を摺り合わせるという
苦労も見せず、何かを取引みたいに譲歩してという
痕跡もなく、やすやすと広告表現にすることができた。
天才たちは、困難な問題の、最大の難関どころを、
ポンと、またはパッと、という仕方で乗り越えるのだという。
長嶋茂雄も、アインシュタインも。
野田 凪もそのような秘密のやり方を使ったのだろうか。
天空の野田 凪の展覧会をやります。
大震災のあと、鏡はくるりと裏返ってしまった。
わたしたちに映っているのはなんの景色だろう。
野田 凪だったらどうしただろうと思う。
それを彼女に聞いてみるための展覧会です。
(サン・アド 安藤 隆)
| 野田凪 |
|---|
| 1973年東京生まれ。女子美術大学芸術学部造形計画デザイン科卒業。I&S、大貫デザイン、サン・アドを経て、2003年デザイン集団宇宙カントリー設立。海外ではミシェル・ゴンドリーやトラクター等が所属するロサンゼルスのPartizanに所属。2007年ファッションブランド「broken label」を設立。アートディレクター、映像ディレクター、アーティストとして活躍。LAFORET、NIKE、サントリー、KOSE、LG、Coca-Colaワールドキャンペーンの広告や、「ハチミツとクローバー」のオープニングタイトル、YUKI、宇多田ヒカル、スネオヘアー、TIGA、Scissor SistersなどのCDジャケットやミュージックビデオを制作。広告キャンペーン、ショートフィルム、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、洋服のデザイン、パッケージデザイン、装丁まで幅広く手がける。アートワークとして、コンテンポラリーアートの展覧会やインスタレーションも行う。「ハンパンダ」の生みの親。ADC賞、TDC賞、JAGDA新人賞、グッドデザイン賞金賞、NYフェスティバル銀賞、NY ADC金賞、銀賞、NYTDC賞、ACC銀賞、カンヌ国際広告賞ブロンズライオン賞など数々の賞を受賞。2006年2月野田凪展(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)、2006年4月野田凪展(パリ コレット)。2008年9月7日逝去、享年34歳。 |
HPから引用